■  3年前と今 — 「やらねば」という思い

岩崎 よろしくお願いします。

蓮舫 よろしくお願いします。3年ぶりですね。私にとっては、釜石というと、もちろんラグビーなんですけれども、やっぱり宝来館の女将さんなんです。3年前、あの3.11が起きて、大変なご苦労をされ、様々なものを乗り越えられてきて。うちの息子の中学のラグビー部は毎年、菅平で合宿をしていたんですけれども、その年はどうしても釜石でということで、花の種を植えるボランティアと、地元の少年チームとの交流試合をしましたが、被災された宿だったのに、ご無理を言って泊めて頂いて、ありがとうございました。あの息子からも今日、父に「明日で3年だね」とメールがありました。やっぱり彼にとっては貴重な体験で、ずっと覚えているし、子どもたちは、絶対に忘れないことの大切さを女将さんから教えてもらったと思います。この3年は、何が一番ご苦労でしたか?

岩崎 そういう事を考えないで今日に至っていて、その時その時の事を、みんなでただ必死になって生きてきたような気がします。実はこの間、こんな質問を受けたんです。「あなたは何を失くしましたか?何を失いましたか?」と。それで、はたと自分の思いの中に浮かんできたのは、「何も失くしてないし、失ってない」っていうことだったんです。津波で流れて行ってしまいましたけど、時間も流れて、いろんな方との出会いがあり、本当に助けて頂いて・・・ふと気づいたら、自分たちは震災前と何にも変わらずここに来てるんだっていう思いが湧いてきたんです。それぞれがいろんな事情を抱えていますが、時が過ぎた今は、自分たちは何も変わってなかったんじゃないか、大変さも普通の事なんじゃないかっていう気がします。ちょっと感傷的で変なのかも知れないですけど。すみません、質問に合ってないですかね。あ、ただ、義務教育の中等部さんの受け入れを決める事が一番大変で、あれは震災後の自分たちを決めるステップでしたね。

蓮舫 あの時、宝来館さんは、別館が全壊をされて、一階・二階は津波被害に遭われて、ある意味吹き抜け状態でしたよね。それでもブルーシートを引いて、うちの息子たち、生徒たちを預かって下さった。あれがなかったら子どもたちは来られなかったし、来た事によって、テレビではなく自分の目で見た被災地が、確実に彼らの心の中に刻まれました。そして釜石ですから、どうしてもラグビー。残念ながら試合は負けたんですけど、岩手の選抜の子たちは強い。津波でご両親が亡くなられた選手もいましたが、それでも試合の時はフィフティーに一緒に頑張って、負けたけれど得たものの方が多かった。だからその意味でも私は、女将さんに本当に感謝をしています。

岩崎 ありがとうございます。実は、私たちの方が本当に感謝だったんです。あの状態の中、大人の皆さんが訪ねてくるのではなくて、中等部の子が来てくれるんですよ。それを出して下さったご両親や学校さんが、どんな勇気だったかって、時間が経てば経つほど、すごく感動したんです。3年間でいろいろありましたけど、中等部のあの子たちが被災地の私たちを訪ねてきて、普通に子どもたちと試合をしてくれるっていうことは、自分たちも前向きに頑張りたいと思わせる、すごい出来事だったんだと思います。あの頃は、ただ無我夢中でしたし、もしかしたら明日津波が来るかもしれない、被災港にまだ行方不明者がいる、そして被災蝿という、今まで経験したことのない大量の蝿もいたんです。その中の出来事だったので、本当に感謝しています。皆さんの勇気もそうですけど、あれは、皆さんがいらっしゃったということ以上に、私たちのスタートでしたね。

蓮舫 女将さん自身も、助けに行こうとして津波に飲まれましたよね。それで、奇跡的に助かられた。私、あの夏に初めてお会いさせて頂いて、震災から4カ月で、パワフルで前向きで、とにかく自分たちが変えるんだ、行政頼みじゃないんだという姿勢には、ものすごく感動したんです。どうしてもあの時は、「行政は何をやってるんだ、遅いじゃないか、もっともっと頼む」という中で、どう出口を出していけばいいのか分からない時でしたが、復興というのは、国の力、県の力、市、町の力もあるけれども、人の力が合わさって初めて前に進むと思うんです。3年経って、町を見せて頂いて、瓦礫は無くなりましたし、倒れてた木々も無くなりましたし、道路は優先してきれいになりましたけれども、生活は全然再建されていない、未来が見えない、来年が読めない、戻れない。本当にそういう痛いところもあるんですけど、でも、例えばこのラグビーカフェもそうですが、人の動き出したところは前に進んでいると見ていいんでしょうか。

岩崎 進んでいると思います。3年前、自分たちが頑張らなくちゃいけないって言ってた時分は、言葉は悪いですけど、ただ「なにくそ」という思いだけが湧いてくるんです。だけど、3年目になった今の思いは、例えばラグビーのワールドカップの誘致にしてもそうですが、以前の「やりたい」という希望から、今は「やらねば」っていうのが、それぞれ動き出しているみんなの気持ちじゃないかと思います。先ほども「私たちがやらなければ」っていう思いでお話ししてたと思うんですが、同じ言葉でも意味合いが全然違うように思います。当初のただ燃えるような、怒りとも似た湧き出るものとはまた別個で、変わらない風景も、進まないことも、全部が自分たちのものとして受け入れられて、一から、一つ一つ自分たちで解決をしていくものだということを自覚して「やらねば」という気持ちになっているんです。なかなか進まない同じステージの上に立ってるようにも見えますけど。

 

■  被災地の覚悟と責任 — 「魅力ある三陸」を伝えていく

蓮舫 ただ、現状として、私たちも本当に襟を正して、復興支援について国会でしっかり議論しなければいけないし、問題があったら指摘して改善していかなければいけないんですけれども、例えば被災地域、太平洋側は、やっぱり水産業と観光業ですよね。ここの部分が受けた打撃は、ようやく再建、支援の緒についたかも知れませんけれど、まだへこんだままです。その中で、お客様あってのご商売ですよね。その最前線では、いま現実、どういう形で何が足りないでしょうか。

岩崎 そうですね、いろんな足りない物とか視点とかがあるんですが、例えば、被災に遭った最初の頃は、「ようやく三陸の時代が来るぞ」と。チリのように、北から気仙沼まで、もしかしたら福島まで、三陸の沿岸から、自分たち三陸人が海を制する事で、これからの東北とか日本の内陸の皆さんをリードして何かが生まれる。この日本列島の中で、海は全部私たちが牛耳って、三陸が復興する中で、今まで考えられなかったようなことが始まると思っていた時期がありました。三陸は観光においても、それこそ20年も30年も内陸格差があると言われていて、それをようやく縮めるという思いがあったんです。でも、3年して気づいた時に、「内陸格差は50年くらいあるかな」っていうぐらい、格差を反対に自覚する自分たちがいて、あんなにチャンスだと思っていたのに、「置いてきぼりになる三陸」っていう不安感を抱える今があります。やるべきこととか、見つける道はいっぱいあったのに、悩みながら足踏みする事が多かったのかな、と。足りないとか、何かが欲しいとかっていう意味ではなくて、これだけの時間と格差を感じてしまった自分たちの3年間とは別の方法で、東北の私たちの生き方、これから100年でも皆さんの役に立つふるさとのあり方を決めて、ちゃんと覚悟した責任の持ち方っていうのを、もう一回確認しながら生きていきたいな、と思います。おっしゃる通り、私たちは観光業で、外から魅力と思われることを生業として、やり続けながら生きていかなくちゃいけません。いくら理想論を言ったとしても、外のお客様があって、交流があって、町は生き続けて、観光業の私たちは生き続けられるので、「復興が進まない」とか「観光においての魅力がない」と躊躇する人たちもいる中で、そういう私たちの生き方を見たいという皆さま、意識のある方たちに来て頂きたいんです。また、3年目にして「被災をしてる私たちだから見に来てください」と自分たちを売りたくはないんです。ある大学生で、宮城県で被災をした子だったんですけど、「女将さん、頼むから、外に出る時に悲しみを訴えないでくれ。悲しみを売り物にしないでくれ。被災だからというのを売り物にしないでくれ。自分たちは東北人として持ってるものが一杯あるから、それを見せたいから、もう悲しみを売る三陸っていうことは絶対言って欲しくない」という若い人がいて、すごく嬉しかったんです。そういう自分たちのふるさとを見せたいこともあるし、また、明日3.11ですので、忘れちゃいけない。それこそ昨日一昨日、うちの3番目の娘の同級生も、DNA鑑定をして3年目でようやく発見、照合されてるんです。そういう家族の皆さんにとっての3年、いま背負ってるものは、やっぱりこの年代を経験した私たちでしか、背負ってあげられなかったり共有できないと思いますので、それを唯一分かりあえる自分たちが、伝えていきたいとも思いますし、悲しみの三陸ではなく魅力ある三陸として、世の皆さんに認めてもらいたいっていう若い人たちの思いも実現させてあげたいと思います。

 

■  目に見えない復興 — ブルドーザーとは違う進め方

蓮舫 売り物ではないんですけれども、他方で悲しみしか訴えられない方たちもおられる。本当に頑張っておられる方たちもおられる。私は、頑張っておられる方たちの背中も押したいし、悲しみしか訴えられない人たちも支えなければいけないと思っています。ただ、国が元気な人たちを支援すると、それは、まず観光業や水産業の生業を支えるために、企業を支援して、雇用を生み出す。そして公共事業だという形になりやすいんですけれども、今回来させて頂いて、例えば吉祥寺の和尚さんに会ったら、大槌では3年経ってなお、60名ぐらいの身元が分からない方の御遺骨があって、お寺さんで分けてお預かりをしているけれど、無縁仏でもいいから、やはり落ち着く場所、お墓をちゃんと作りたいという声がありました。あるいは釜石で言ったら、子どもたちに放課後が無くなっちゃって、集う場所もないし、家は仮設で兄弟がいたり、おじいちゃんおばあちゃんがいたりして、もちろん個室もないし、家族の団らんの場所では、集中して勉強ができない。だから、カタリバさんがおやりになられている子どもたちのスクールで、そういう子たちのための勉強の場所を提供している。どうしても、永田町から見えない人の部分、弱い部分に、今回あらためて気づいて、実は今すごく反省をしているんです。ここは、すごい複雑な思いがある地域だと思います。津波で流されなかった人、流された人、仮設住宅から出ていける力をもらえた人、今なお居られる方。私たちは、いろんな人たちの声に応えて、日本として、一緒に復興しなきゃいけないと思うんです。

岩崎 その言葉はありがたいことで、今まで、例えば奥尻で5年で復興したと宣言をしました。そして、阪神もあり、新潟もありました。先に被災した皆さんと交流もしながら、メッセージも受けながら、勉強させてもらって、自分たちに照らし合わせる時に、今回の復興のあり方は、前の時がこうだったから自分たちも学習してこうなります、という決め方ではなくて、これから100年、150年、もしくは1000年先、これから何回も日本が体験するであろう震災と復興の始まりが自分たちだと思うんです。弱い人、苦しみを背負った人たちが数多ある中で、表から見ただけのブルドーザーのような進め方ではなく、いま仰って頂いた「目に見えない復興」という形も含めて、広く大きく復興計画を立てるということが、これから何回も日本のいろんな所で起こるかも知れない。過去の学習を踏まえて東北を復興するだけではなくて、これから起こるであろう全ての災害に関する人たちのために、蓮舫さんのように、ここに来て、悲しみとか、やらなくちゃいけないことを見て、活かしてくれることは、小さな事ではないんです。ひいては、これから起きる日本の災害の全てに適応になるというか、次に起こった時に、みんながバラバラにならずに、勇気を持って、未来を持っていくことに繋がるんじゃないかと本当に思います。今までの表向きでブルドーザー的な復興では、3年では追いつかなかったし、解決できなかったし、私たち三陸は、ようやく今スタートに立てているような気がするんです。遅れたとか、取り残されるということではなくて、今起こっていることが全て、これから起こることへの準備だったり、未来のためだったりという視点であれば、やるべきことの順番が変わってくるような気はします。

 

■  未来を育む復興 — 「創造」が生きる力になる

蓮舫 あの、てんでんこでしたっけ、まさに女将さんが海を見てて、そして上に逃げろっていう・・・

岩崎 はい、てんでんこっていう三陸の教えがあります。

蓮舫 だから、ずっと伝えられてきたものでもあったんですよね。

岩崎 そうですね。実は、今回の事で、私たちジオパークにも選ばれているんです。また、産業の世界遺産、九州を中心とした産業遺産の中に釜石が無事に入ることになりましたが、それって、大地のプレートの動きによって、釜石の鉄の産業が生まれているんです。そして、だからこそ津波にも遭いながら、生き続けてきたのが私たちのDNAです。そう考えると、全てこの地球自体が生きている営みの中で起こることだなって何となく感じて、特別な事ではないのかも知れないと思うんです。その繰り返しで、私たちの先輩はずっと私たちを生かして下さったのだから、私たちも生き続けて、今回、日本中、世界中の皆さんに助けられて、人のつながりをとても感じて感謝していて、これからもずっと、人を助ける日本人、世界の人に助けられる日本であって欲しいので、自分たちもそういう風なお礼ができればと思います。

蓮舫 今を生きる世代の中でも、私は特に重視してるのは次の世代、未来をつくる世代なんです。少子化で、いろんな負担を次に担わせてしまっている政治の責任を、解決することで果たしていかなければいけないと思うんです。そういう意味では、私は剥がす作業をずっとやってきました。行政改革は嫌われます、ヒト・モノ・カネつながったものを剥がして、無くして、そして壊すものですから。ただ、そこで生まれた財源を次の世代に投資したいと、ずっと思って10年国会議員をやっているんです。震災が起こった3年前、私たちは与党でした。今は野党になりました。でも私は与党の時にも、復興増税で払って頂いたお金が被災地じゃなくて全国のゆるキャラに使われているとか、こういうお金の使い方を質してきました。そして野党の今も、復興のお金が何に使われているのか常に追いかけています。こういう、税の使われ方を追いかける姿勢は常に持ち続けたいと思うんですけど、一方で削る・そぐだけじゃなくて、育むという産業、未来が絶対にあった方がいいと思うんです。私、やっぱり釜石に特別な思い入れがあるのは、父もそうなんですけど、ずっとラグビーが好きで、息子もラグビーをやっていますし、釜石って言ったら私にとってラグビーなんです。今日、このラグビーカフェを貸して頂いていますが、これができた時にもびっくりしました。ボランティアで作られたんですよね。

岩崎 ええ、今いるスタッフもそうです。やはり釜石はラグビーの町で、この間タウンミーティングをやったんです。それで、全盛期の釜石を知っている50代、60代の皆さんが、あんな風に熱気があって、ラガーマンとも交流しながら、夢のある青春時代だったと。ああいう釜石を今の子どもたちが知らないので、その雰囲気を、ラグビーを通して味わわせたいっていう女性の方がいたんです。それと、ラグビー精神で「みんなが幸せにならなければ一人の幸せじゃない」って言いますが、それは宮沢賢治の「世界中の人が幸せでなければ一人の幸せじゃない」に行きつくじゃないですか。ラグビー精神を先に言ってたのは岩手県人だって言うんです。(笑)

蓮舫 「One for all, All for one」ですね。

岩崎 最初のころは、例えば青学の皆さんがラグビーで来てくれて、次に、ラグビーのワールドカップがあるんだということを教えてもらって、だったら、藁にも縋るつもりで、「ラグビーの町だもの、ワールドカップを釜石でやったっていいじゃない」と。それは、心底そう思ったという以上に、私たちにとって「藁に縋る、雲を掴む、夢が欲しい」という、自分たちを奮い立たせるための「ワールドカップが欲しい」だったんです。それが3年すると、もう絶対ここでやることが決まったみたいなつもりでいるんです。ラグビーカフェができて、ラグビーを応援する全国、世界の皆さんが「ラグビーの町、釜石だもの、応援するよ」って集まって下さって、自分たちが生きていくための一本の蜘蛛の糸のようだった、藁のようだったラグビーのワールドカップが、応援隊の皆さんのおかげで本当になりそうだっていう3年目ですもの。スポーツはタイミングがありますし、私は音楽芸術文化村をやりたいと言っていて、文化の一つがスポーツだと思っていました。ただ、行政の皆さんとか政治家の皆さんが一生懸命考えてて、目に見える形で始めるのが3年目の今からも必要だと思うんですが、私たち一般住民にとっては、目に見える変化がないと、何にも変わらないと思い込んでしまう。そんな自分たちにも、考えながら何かを生み出せるのが、スポーツの応援であったり、音楽だったり、人との出会いで何かを一緒につくり出す作業だったりするんです。そういうことで3年間、私たちを引っ張ってくれている人の出会いがあったと思います。行政の皆さん、政治家の皆さん、応援してくれる皆さんがいらっしゃって、一生懸命復興の計画をちゃんと立ててくれても、それを黙って見るだけではいけなくて、何かを創造したりすることが生きる力になるっていうことが、この頃、何となく分かってきたというか・・・抽象的なことばかり言ってごめんなさい。

 

■  それぞれの役割 — 「あれもこれも」の女将役

蓮舫 でも、実践というか率先しておられていますよね。文化という部分では、スーパーキッズオーケストラ、子どもたちの音楽を本当に実現しましたよね。あれはどういう流れだったんですか。

岩崎 あれは最初に、群馬大の片田先生が釜石で防災教育をやっていましたが、片田先生と親しい大阪の新聞記者さんがいて、釜石では奇跡が起こったぞと、言葉として作られて発信されたんです。その新聞記者さんから片田先生に、指揮者の佐渡裕さんが阪神大震災を経験なさっていて、どうしても東日本を訪ねて、生きている皆さんではなく、海に向かって、まだそこにいるであろう皆さんに、スーパーキッズという子どもたちの演奏を届けたいということが伝わって、今度は片田先生から私にお電話を頂いたんです。それで、私がまたその新聞社の方にお電話したら、「佐渡さんにお手紙書いたら?」というつながりで、佐渡さんが来て下さった。そして、地元の子どもたちも、スーパーキッズの演奏を聴くことで、自分たちもバイオリン弾いてみたい、何か始めたい、というのに繋がりまして、兵庫からご支援を頂いたりして、中古のバイオリンを修繕して、クラブ海音というバイオリン教室ができました。これは、本当に続けられるのかなと思ったんですけど、遠野の方に千葉さんという素晴らしい女性がいて、彼女は九州から遠野に嫁いでいらしたんですが、ずっと遠野の中で文化を広げてきた方だったんです。その彼女が事務局を引き受けてくれたことで、この被災地のバイオリン教室がずっと続く事になって、いろんな方の出会いが始まります。今度はベルリンフィルの皆さんのプロジェクトも来ていて、ここに応援に来ているいろんな人たちと交流しながら音楽をつくろうという案があるんですが、佐渡さんのきっかけで、クラシックもバイオリンも何も分からない私たちに、全く知らない世界の扉が開いて、音楽によって人との出会いがあって、そして子どもたちに夢が広がっていくという、そういう出会いでしたね。

蓮舫 それは、行政では絶対に描けないことを実現されていて、一本の電話や一通の手紙から、その指揮者の方とつながって、スーパーキッズの子たちが来られて、海で眠っている方たちに向けてのレクイエム、そしてそれがベルリンフィルにつながるという、これは用意しても絶対にできないことですよね。誰かが動き出して、人と人がつながって、そして子どもたちに未来を紡いでいくという、女将さんに会うと、いつも私すごく学ぶんです。どうしても、何か足りない所を探してそこを埋めなきゃいけないという行政になりがちなんですけれども、あるものをどうやって支援していくかという視点に変えなければいけない。たぶん、もしそれをやったとしても、音楽堂がないとか、じゃあ音楽堂は復興支援で作れるかと言ったら、復旧じゃないから作れないという話になるんですよ。そうすると、せっかく生まれた人と人のハーモニーの企画ができなくなる。やはり、もうちょっと柔軟性を持った、国と県と市区町村の連携を頑張らなきゃいけないと、今すごく思ってるんです。

岩崎 私たちは、こういう活動をしながら、建物でも道路でもない、そういう発表の場所、みんなが集まる場所が欲しいと一生懸命訴えてた時期もあったんですけど、やり続ける事で、見てて下さる皆さんが、「じゃあこれが必要だろう」という時が必ず来ると信じていました。自分たちにできるのは、ものを作ることではなくて、つながり続けることだけなので、それだけは最大限やり続けて、役割分担で、誰か見てる人たちがそれを広げて下さる、そういう出会いを本当にお願いしたいと思っています。それにしたって、私たちは自分の半径何メートルしかできないので、見てて下さって、次の夢につなげて下さるのが政治だったりするのであれば、本当にありがたいと思うんです。あと、ある方に、すごくありがたい言葉を頂いたんです。稀に私は、「そんな八方美人のように何をやってる」とか「供給過多ですよ、あなたは」とかって、いろいろ言われることがあるんです。でも、ある方が「それが震災後、あなたが与えられた仕事かも知れないから」って。あっちもこっちも、何でもかんでも手を出して、あれもこれもやりたい、でも尻ぬぐいできないっていうことがいっぱいありますが、それでも、「あれもこれも、こうだああだ」っていうのが、もしかして震災後の私の役目で、それをきっちりやる人たちがいて、それをまた誰かが応援して形になって、次にちゃんとしたものになって・・・やっぱりそれぞれに役割分担があるのかも知れないので、夢だけ語ったり、あれもこれもって掴む女将役をやらせて頂いて、そしたらこういう、蓮舫さんとの出会いもありましたし。

蓮舫 それは私の方がありがたい出会いです。これはこのあと、私のホームページで掲載させて頂きますけれども、いつも本当に元気を貰うので、それが伝わればいいなと思います。これからも常に私は、何をされているのかを見てますし、足りないことがあったら、そこから学ばせて頂ければと思いますので、引き続きよろしくお願いします。

岩崎 本当にこういう風に、私たちにじかに会いに来てくれて、震災の年も、実は蓮舫さんが草取りをして下さってたっていう事実を、後で知ったんです。息子さんたちが来てくれてて、「蓮舫さんは忙しいから帰ったんだろう」って思ってたら、お泊まりになりながら、ちゃんと草取りをしていらしたってのを聞いて本当に感動しまして、日本の国には、政治家の皆さんでも、ちゃんと私たちと歩調を合わせてる人たちがいるというのは、本当にありがたかったし、日本という国は絶対に悪い方向に行かないんだとも思いましたし、そういう政治の皆さんと一緒に歩いて行ける私たちでありたいと思います。

蓮舫 ぜひ双方向でやらせて頂ければと思います。ありがとうございました。

岩崎 ありがとうございました。

(敬称略)