2004年5月31日(月)
=== 私の年金未加入問題 ===
5月4日の日記で報告いたしましたが、改めてまたここでご報告いたします。
本日発売の「週刊ポスト」で、私には年金未加入の時期があることが報道されてます(「参院選267候補者に『年金未納』を質す!」)。
で、私の場合、未納ではなく未加入です。
未加入の時期は、大学4年生の途中から卒業までの8ヶ月の間です。
ただし、私は1990年3月卒業ですから、その時期の大学生は国民年金には加入しなくてもよかったのです。
大学生は加入しなくてもいいよ、という時期です。
ですから私は、卒業した90年の4月1日に国民年金に加入しました。
5月4日の日記には「すべて払ってます」と書いてあります。
そう書いた理由は、加入しなければいけない時点になったら国民年金に入った。それ以来年金はずっと収め続けている。ですから、「すべて払っています」と書きました。
しっかし、危ないところでした(って適切な表現じゃないかもしれませんが……)。
大学生でも国民年金に入らなくてはいけなくなったのが、1991年の4月。
私の学生時代は90年まで。
ふ〜。
当時、私の知る限り、大学生で国民年金に入ろうかどうしようか、迷っている人はいませんでした。なのに、学生時代に迷わず国民年金に入っていた方がたくさんいらっしゃいます。
週刊ポストの記事によると、そうなります。
その点、私は反省しております。
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2004年5月30日(日)
=== 元気ですよ! ===
そろそろみんな、私の体力のことを心配してくれ始めました。
何しろ、土曜日も日曜日もなく、朝から夜まで汗かきベソかきやってますから、みんなが「蓮舫の身体は大丈夫だろうか」と尋ねてくれます。ありがとうございます。
ところが、私はいたって元気です。
もともと頑丈な身体をしていますし、学生時代はハンドボールで鍛えていましたし、それに走るのも短距離は遅いですが、長距離になると速い、という基礎体力がほかの人よりもあるんです。
仕事をしてても、子どもたちを産んでからはセーブしていましたが、それ以前はホントに分単位で動いてましたし、動いていた方が楽なんです。そういう性格でもありますので。
それに、青山事務所で働いてくれているスタッフ、今日のように暑い日も街頭演説でお手伝いしていただいているボランティアスタッフ、友人たち、どなたも私と同じように土曜日も日曜日もなしで、頑張っていただいてます。
何とか彼女たち彼らに報いたい。
法律によってお金を払うこともジュース一本差し入れすることもできない私が、彼女ら彼ら、無償の頑張りに応えるには、結果を出すしかありません。
だから、私はまだまだ元気です!
田原総一朗さんのお嬢さんが無事にご出産なさいました。双子の男の子たち、母ともに健康。おめでとうございます。
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2004年5月29日(土)
=== じっくり40分 ===
街頭演説のアドバイスとして、
「10分から15分で話終わる内容にしなさい」
「たとえ40分お話するとしても、その10分の内容を繰り返しなさい」
「ところどころに自分の名前、『れんほう』を入れ込んで『わたくし、れんほうは、』とお話しないさい」
というふうに、先輩方からいただいております。
しかし私は、まったく無視してます(スイマセン)。
みっちり40分、ひとつながりのお話をさせていただいてます。
というのは、最近では40分、ちゃんと聞いていただいている方が多くなってきたからです。
今日も、夕方から新宿駅南口とその周辺で街頭演説してきました。
夕方とはいえ、気温は28℃を超えていたと思いますが、そんな熱いさなかにじっと立って聞いていただいているんです。ありがたいことです。
ですから、年金のお話、外交のお話、食の安全、子どもの安心、私が体験してきたことを交えながらお話すると、40分はあっという間に過ぎていきます。
あっという間、は私にとってですが、聞いていただいているみなさまにとっても、そうであって欲しいなと、明日も気合いを入れて(笑)、街頭に立ってきます。
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2004年5月28日(金)
=== 宮崎さんの朝ナマ ===
今日の「朝まで生テレビ」は、田原総一朗さんがお休みで、司会は宮崎哲弥さんでした。
今まで何回か、田原さんなしの朝ナマがありましたが、今回のが一番よかった。
司会の隣にはわりとその回のアドバイザー的な人が座るんですが、その席には宮台真司さんと木村剛さんで。
私は、ポスト田原総一朗は誰もいないと思っていて、なぜなら「田原総一朗」というのは一つのビジネスモデルというか、商品なんでしょう。であるのであれば、いつものところにいつのも役割をする商品がなければ、その場は成り立たない、と。マネをしても、ビジネスモデルにはならないし。
ところが、宮崎さんのは、宮崎さんなりのステージになってましたね。ご覧になった方はおわかりかと思いますが、話題の振り方、それを誰に語らせるか、いつ自分の持論を押し付けるか。とてもよかったです。
でもやっぱり、田原さんがいない朝ナマはさびしいなあ。
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2004年5月27日(木)
=== 1,900km走破! ===
上野の丸井の前で街頭演説。
もうすっかり街頭演説に慣れてしまって、お話しながら周りを見渡してどんな方がいらっしゃるかわかるようになりました。
これはやっぱりテレビに出ていたおかげかとも思います。というのは、テレビではカメラの下や後ろでフロアディレクターといわれるスタッフが紙に書いて「何とかを話せ」と指示を出します。または、「あと何秒でコマーシャルへ」という指示も出ます。サブ(調整室)にいるディレクターからは直接、インカムを通して指示が来ます。
これ、全部しゃべりながら指示を聞いて判断するんです。
ですから、昨日の上野では、「雰囲気が北京に似てるな〜」などと思いながら、むかしっからお世話になっている人が聞きに来てくれているのを見つけてこっちから手を振ったり(笑)、自転車で二回も三回も通り過ぎていくこれまた知人を見つけたり。
街頭演説が、とっても楽しくなってきました。
ところで、手塚よしお代議士の秘書の松田さんが私をクルマに乗せてくれるようになって一カ月ぐらいになります。
すでに「松田号」、走行距離は1,900kmを超えてしまいました。
この距離って、どこからどこまでと同じなんでしょうか。例えば、東京から福岡まで、とか。
ご存知の方は教えていただけないでしょうか。info@renho.jpまでメールください。
よろしくお願いします。
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2004年5月26日(水)
=== 自分たちで国を ===
明日から母が仕事で台湾にいくので、台湾のお友だちに電話をかけて話をしていたら、
「阿蓮(ありぇん)」(れんちゃん)
と、私と同い年のお友だちの一人が。
「自分たちの国を自分たちで変えるにはどうすればいいと思う?」
なかなか本質を突いた質問。
この方は、ずっと陳水扁総統を応援していました。
私は、私のママフェストを簡単に説明しました。
「とてもいいと思うよ。でもね、」
とその方。
「与党にならないと国は変えられないよ」
権力は悪をする、という意識がまだどこかにある私は、どうも与党だの政権だのという言葉には気が引ける思いがしたんですが、それを伝えるとその方は、
「昔の自民党政権のイメージを引きずりすぎかな」
と笑っていました。
そのあと、李登輝さん、陳水扁さんの政権になって、台湾ではどういう社会に変わってきたか、そのために政治家とその支持者支援者がどう行動してきたか。彼女は電話でゆっくりと話してくれました。
議会制民主主義、政党政治。学校で習ってわかっていたつもりのこれらの用語に、初めてリアリティを感じた会話でした。
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2004年5月25日(火)
=== 初めての朝 ===
今日、初めて朝の街頭演説をしてきました。新小岩駅前、7時半、カラッと晴れて湿り気もなく、とっても気持ちがいい朝で、私の声もいつもよりよく通りました(笑)。
しかしさすがに出勤時間ですから、午後や夕方のようにはみなさん立ち止まってはいただけません。それでも、サラリーマンやOLのみなさんも耳と目だけは私の方にむけていただきました。ありがとうございました。
こんなときは、夕方のように話を組み立てることはできません。じっくり聞いてはいただけないからです。
ですので、短く、耳の残るフレーズを繰り返すことになります。
この日は、トップニュースがメガバンクが軒並み黒字になった、というものでしたから、ここから話を組み立てました。
メガバンクが黒字になったということは、不良債権の処理がいよいよ最終段階になり、景気も本格的に回復してきた、ということになります。
貸し渋り、強引な資金回収が終わって、市場にお金が出回る。経済が活発になる。暮らし向きがよくなっていく。休暇はもっと楽しく過ごせるようになる。
ですが、ここできちんと、日本はどんな国にするのか、どんな社会を組み立てるのかの道筋を考えないといけませんね。年金や外交、今までのように無計画、戦略なしを繰り返すのか、それとも20年後を見据えた戦略を立てていくのか。
経済が立ち直り、世の中が明るくなったときに、ちゃんと計画を立てないといけません。
今の大人、私たちだけの日本ではないですし、日本一国だけ、アメリカとの同盟だけで渡っていける世の中ではないですから。
というようなことを、お話させていただいてます。
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2004年5月24日(月)
=== サバイバル以下 ===
子どもたちにどうやって「生きる力」をつけさせるか。これは大問題です。北川正恭さんが三重県知事のとき、サバイバルとはいわないまでも、
「小学校でも、せめてエンピツぐらいはナイフで削らせるようにしよう」
と提案したそうです。
すると、教育委員会は、
「ダメです」
と即座に却下。理由は、
「先生たちがナイフを使えません」
私も小学校に上がるころには、鉛筆削りは電動のマシンを使っていました。
大人になって、「こりゃイカン」と練習したのがナイフで削ることでした。
まず私たちの生きる力を高めないといけないですね。
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2004年5月23日(日)
=== 意識の問題 ===
今日は、碑文谷ダイエー前と二子玉川駅前の二ヶ所で街頭演説をしてきました。
碑文谷では、北京大学での同級生の高橋哲也くんがお手伝いに来てくれて、チラシ配付を大量にやってくれました。どうもありがとうございました。
二子玉川では、子どもたちが通っていた幼稚園の先生やら、子どもたちの同級生とママたちにも偶然、なのかHPを見てきてくれてなのか、これも「おーっ!」っていう感じで、とっても嬉しかったです。
そして、一緒に演説をした世田谷区議の関口太一さんのインターン学生さんたちもボランティアで手伝ってくれました。ありがとうございました。
彼らを見て思ったのは、彼らは必ずしも政治をよく知っているわけではないんですが(私もそうかもしれないけど)、やっぱりこうした活動に参加することによって政治への意識が変わってくるんだ、ということです。
政治が身近に感じられるようになる、と。
身近に感じられるようになったといえば、二子玉川では鳩山由紀夫さんが応援に来てくれたのですが、演説を聞いていただいた人たちは、鳩山さんをとても身近な政治家だと思っていただけていることです。
鳩山さんは、気取ったところも気難しいところもなく、とっても親しみやすい政治家ですよ、みなさん。
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2004年5月22日(土)
=== さて、これから ===
ご家族5人が日本に帰ってこられました。おめでとうございます。
ですが、まだまだ問題は残っております。
一種の外交ディールとはいえ、私にも不満はたくさんあります。
さて、これからだ、という思いがわいてきました。
東京の気温は20℃以下。寒い一日でした。
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2004年5月21日(金)
=== やっぱり外交 ===
今日は、大塚たかあき都議会議員と矢野健一郎港区議会議員と一緒に、品川駅前で街頭演説をしてきました(HPの「れんほうの一枚」を見て下さい)。
街頭演説をするときに、私はまず集まってくれている方々が男性が多いか女性が多いか、若い人が多いか熟年の人が多いかをざっと見渡します。それで、話す内容をその場で決めるんです。
この日は、どちらとも言えない状態(これが一番困るんですけど(笑))。
でも面白いですよ、話題によって聞いていただける層がはっきりと分かれるんです。
で、まずは年金のお話を5分ほど。これは、老若男女どなたでも聞いていただけるようになりました。やっぱりおかしいですもんね、払ってない人たちや払ったかどうかを説明してくれない人たちが国会で決めようとしているのが年金ですから。
そして、私のママフェストの一番最初の子どもたちの安心と安全について。これは、お子さんを連れた、私と同じくらいのお母さんたちが熱心に聞いていただきました。
子どもといえば、ということで、拉致被害者の関連で外交問題。昨日の日記に書いたようなことを、もっと突っ込んでお話しました。
国会議員の先生たちから、「街頭演説ではあんまり突っ込んだ話をしては聞いてくれないよ」というアドバイスももらっていますが、どうしても不慣れなもので(笑)、どんどんどんどん話は具体的になっていきます。
聞いてくれないかといえば、ぜんぜんそんなことはなく、サラリーマンのお父さんたち、学生さんたち、OLさんたち、そしてお母さんたち、つまりこれもすべての層の方々が、これもまた熱心に聞いていらっしゃいました。
やっぱり外交、みんな関心があるんですよね。
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2004年5月20日(木)
=== もっと積極的に ===
小泉首相の訪朝が迫り、拉致被害者のご家族が帰国するという情報が公になり始めました。
お子さんたちが日本に来て親御さんたちと一緒に生活できるようになるのは、とてもいいことで、実現されれば小泉首相の外交は評価できることだと思います。
ただ、私には心配することがあります。
これで拉致問題が解決された、となることはもちろんあってはならないことですが、日本に来たお子さんたちが、中国残留孤児と呼ばれた人たちのお子さんたちが味わった辛い目にあわないようにしたいということです。
もうひとつは、これを機に東アジアの関係強化に向けての外交努力というか、戦略が小泉首相にはまったく見えないことです。
韓国には、拉致された人たちが一〇〇人を超えています。忽然と街中から消えた人、漁に出たまま船ごと拿捕された人が、たくさんいます。
ノウハウといえるものがあるのかどうか、日本の場合と韓国の場合は違うということもありますが、ともかくも日本のこのケースを韓国での拉致解決に連携させるようなことが必要で、そのために中国にも協力してもらうこともでてくるでしょう。
今日は台湾の陳水扁総統の就任式がありました。2008年には台湾の新しい憲法を作ると演説の中で述べていらっしゃいました。
そこまでの期間、中台関係もいろいろと難しい場面が出てくると思われます。この両国の間に日本が入って調整役なりシンポジウムを開くなり、ここは日本の出番だと思います。
つまり、今回の帰国の朗報を好機として、韓国との協力、中国との連携、台湾との関係強化。東アジア外交を積極的に展開していくべきだというのが私の意見です。
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2004年5月19日(水)
=== 誰のための「追納」? ===
雨の新宿アルタ前で1時間ほど、街頭演説をしてきました。
いやー、それだけ外に立ってると、やっぱり寒いですね、この時期でも。
でも、この話題をお話し始めると、私もあつくなってきたし、聞いて下さったたくさんの方々も反応が熱くなりました。
この話題とは……。
年金未納分を「追納」できる期間を長くしよう、という法案が国会にかけられています。
払いたくないから払ってない人がいて、この一連の騒動で払いたくない人がたくさんでてきただろうにに、
「まだまだ過去の分を払えるようにしますよ」
とはどういうことでしょうか。
誰に向かって作っている法律なんでしょうか。
どうしたもんでしょうかね、こんなのは。
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2004年5月18日(火)
=== 岡田代表 ===
いてててて……、筋肉痛が……。
日曜日に三社祭にいってきて、その……う〜。
民主党の大躍進パーティにいってきました。
うわー! っていうくらいに全国から民主党員のみなさんがお集まりになって、もう誰がどこにいるのか、という状態でした。
ホントに、中山よしかつ先生が
「ほれ、蓮舫あっちいけ、こっちいけ」
と指示(?)していただいたおかげで、いろんな方にお目にかかれたし、それでも人の波をかき分けて進んでいるうちに、見失ってしまったり。
そんな中で、岡田代表がお声をかけてくださって、
「クツ、書いてくれたね。ありがとう」
と、はにかみ笑い。
(4.21の日記「くつボロボロ」を参照して下さい)
知り合いの新聞やテレビのベテラン記者が、
「それにしても、いい顔になったなあ」
と何人も。
私のことかと嬉しくなってお礼を言ったら、
「岡田さんのことだよ(笑)」
と。
私はまだまだ大躍進までいかず、でした。
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2004年5月17日(月)
=== 200人! ===
今日の事務所開きには、200名を超える方々にお集まりいただきました。
みなさま、ホントにありがとうございました。
午後4時からという中途半端な時間にもかかわらず、ふつうの会社員の方やOLさんや主婦の方も来ていただけましたし、青山の道路に面した事務所ですので、通りがかった方々、ご近所のみなさんたちから、あたたかい励ましのお言葉をたくさんいただきました。
とっても嬉しかったです。
国会議員の仙谷由人さん、菅直人さん、海江田万里さん、鳩山由紀夫さんにはスピーチをいただき、海江田さんはお得意の中国語で! Club Renho(蓮舫応援団)の田中英雄会長、高野孟さんにも激励をいただきましたし、都議会の議員さんもたくさんお集まりいただいて、とても賑やかな事務所開きになりました。
そして何より、東京中の区議会市議会の民主党の議員さんたちがボランティアスタッフとしてお手伝いしていただいたこと、嬉しかった。みなさん私より若くて(うぅ……)、てきぱきとした動きが、とっても頼もしかったです。
感謝したいのは、今日来ていただいた方、そして来れないからとメッセージをいただいた方、いずれもきれいなお花を頂戴したことです。しかもどなたからのお花も、独創的というか個性的な生け花。アジアンテイストにまとめた私の事務所に(外から見えるところだけですけど……)、文字通り華を添えていただきました。
もうひとつ、Club Renho(蓮舫応援団)の立ち上げには、田原総一朗さん、三枝成彰さん、マッドアマノさん、清宮克幸さん(早稲田大学ラグビー部監督)、メディアの人たちも取材を兼ねて集まっていただきました。
小さい私に似合った小さい事務所ですが、そこに来ていただき、応援してくれるたくさんの方々のお一人お一人のお顔が心に残りました。
すばらしい、あたたかい船出となりました。
ありがとうございました。
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2004年5月15日(土)
=== 舫う(もやう) ===
今日、日記をアップしてからしばらくして電話がかかってきました。
日記には、私の「蓮舫」という名前には「蓮の花の船を漕いで、乱世でも強く生きていきなさい」というおばあちゃんと父母の願いがこもっている、と書きました。
ところが、かかってきた電話では、
「蓮ちゃん、『舫う』には『船を漕ぐ』っていう意味はないよ」
と。コラムニストの勝谷誠彦さんからでした。
勝谷さんとは、彼が週刊文春の記者だったことからの知り合いで、グラビアの仕事で一緒にフィリピンに行き、スモーキーマウンテンやどこそこへで写真を撮りながら、ロングインタビューをしてもらって以来、私をよく理解していただいている一人です。
(ちなみに、勝谷さんが書いたその記事を私とまだ知り合う前の夫が読んで印象に残っていたらしいです)
私も急いで調べました(また広辞苑の電子辞書です)。
確かに「舫う」は、勝谷さんのおっしゃる通り「船を漕ぐ」という意味はなく、
「船と船をつなぎ合わせる。杭などに船をつなぐ」
という意味で、「催合う」と書けば、
「寄り合って共同で事をする」
となります。
勝谷さんありがとうございました。
とすれば、「蓮舫」は私が教わっていた意味ではなく、
「蓮の花の船をつなぐ」
という意味になりますね。
とすればまたは、
「蓮の花の船をつなぐ」
役割を私がすべきだ、ということになりますかね。
蓮の花はお釈迦様が乗っている花のイメージがあります。
平和や平安、安心と安全を……。
牽強付会ですか?……失礼しました。
自分のことはよく調べてから発言しましょう、という教訓を得ました。
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2004年5月14日(金)
=== 名前の由来 2 ===
私の名前の由来は? という昨日の続きです。
蓮舫の「蓮」は蓮の花、「舫」は「舫(もや)う」とも読んで、船を漕ぐ意味です。
私の父方のおばあちゃん、陳杏村さんがつけました。
(わが家は父である謝哲信を「謝さん」、おばあちゃんのことを「陳杏村さん」とさん付けで呼び、母方のおばあちゃんのことを「おかあさん」と呼ぶんです)
父がまだ子どものころ、中国は日本と戦争をしていました。そして、国内では国民党と共産党が戦っていました。つまり、対外的には日本との戦争、国内的には内戦をしていた、どこもかしこも戦争だったわけです。
当時、父の一家は上海に住んでいました。父のおとうさん(謝達淋さん)は医者、陳杏村さんは貿易会社を経営していて、最初は不自由ない生活をしていたと聞いています。
ところが、一家はもともとが台湾出身の台湾人ですから、中国本土に暮らしていても国民党でもなく共産党でもない、日本人なんです。
複雑ですね(笑)。こういうことです(また長くなる……)。
台湾は1895年、日本に併合されました。1894年の日清戦争の結果、翌95年に日本と清国は下関条約を結び、遼東半島と台湾を日本に帰属させることで講和を結んだのです。
その後、中国は混乱が続き、孫文たちが新しい国を作るために(後の)国民党を作ります。そのときの清国の皇帝は、ラストエンペラーで有名な宣統帝溥儀です。
そして1911年、孫文たちは辛亥革命を起こし、清国が滅び、中華民国が誕生します。
でも、中国はそれで平和になったわけではなく、国内のあっちこっちに「政府」ができ上がったり、混乱はますます深くなっていった。その過程で中国共産党が立ち上がります(1921年)。
こうして、中国国内は国民党と共産党との内戦に入り、そのまま対外的には日本との戦争になっていくわけです。
で、台湾は「日本」だと。
そういう内戦と戦争の時代に、台湾人なのに「日本人」である両親を持つ父は「日本人」として生まれ、「日本人」のまま父の一家は中国・上海に渡る。
そこで、戦争が激しくなり、父の一家は財産を取り上げられたり奪われたり、おじいちゃんが亡くなったり、ボロボロになって台湾に帰る。
戦争が終わって、台湾は日本ではなくなりました。でも平和になったわけではありません。まだ中国では国民党と共産党との戦いが続いていて、内戦に敗れた国民党は台湾に渡ってきました。国民党は、今度は台湾にもともと住んでいた人たちを武力によって支配したのです。
この台湾での国民党の支配を打ち破ったのが、2000年の総統選挙で勝ち、今年の選挙で再選した陳水扁さんなんです。
お話は上手く現在につながりました。
陳杏村さんが父を育てた時代は、こういうわけで、どこもかしこも戦争です。戦争が終わっても、強盗略奪、圧政に虐待に人権蹂躙が日常でありました。
そうした記憶が、陳杏村さんには強く残っていて、私が生まれたとき、「蓮舫」と名付けました。なぜでしょうか。
蓮の花は沼地に咲きます。泥の中に咲くんです。
たとえ泥のような濁った世の中、混乱した世の中になっても、蓮の花に乗って舫いでいくように強く生きていきなさい。
これが、おばあちゃんと父と母が生まれたばかりの私に込めた願いで、その願いが「蓮舫」という名前になり、今の私がいるのです。
名前の由来は、父が生前、何度かだけ話してくれました。
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2004年5月13日(木)
=== 名前の由来 ===
中田宏横浜市長とお話してきました。
中田市長は青山学院大学の先輩で、1993年でしたか、日本新党の細川護煕さんの秘書を辞めて初めて衆議院議員選挙に出馬なさったときからの知り合いです。
そのころ私は、「ステーションEYE」(テレビ朝日)で報道キャスターをしながら、毎日国会の中で取材をしたり(いわゆるぶら下がりという方法でです)レポートしたり、ときには選挙の取材に走っていました。
(ちょっと話は違うんですが、国会の中でぶら下がり取材を後藤田正晴さんにしたときのことです。後藤田さんに政治改革について自民党は何をするつもりかと質問をしたら、「ご婦人にお答えすることではない」とハッキリいわれてアゼンとしたことを思い出します)
で、中田さんとの今日の話です。
私の「ママフェスト」のみっつの柱の一つに、外交問題があります。外交はつい最近まで、政治の争点にはならないとされてきました。利権がからまないからといわれています。
でも今、外交ほど日本に大切な政治マターはないんじゃないかと。北朝鮮にしろイラクにしろ、あるいは中国との経済問題、韓国との文化の問題、両国との歴史の問題、そして拡大したEU(ヨーロッパ連合)、アメリカとの同盟、国連と憲法の問題。すべて、私たちの国の安全と安心にかかわってきます。
外交問題は大切だ、ということで中田市長と意見が一致しました。
そこで中田市長は、私には外交を重視すべき「正統性がある」とおっしゃいます。
なぜなら、私は台湾人のハーフであり、小さいころから台湾と日本を行き来し、大人になってからは実家の仕事の通訳のお手伝いをしてきました。また、中国の北京大学へ留学して、中国のことを北京で、上海で、大連で勉強したり、各地を旅行して(広いんですよ、中国は。モンゴルからシルクロードからチベットからありますから)、いろんなことを身をもって体験してきました。北京大学には、世界中から学生が集まってきてもいました。
国籍は日本で生活習慣も日本人のものですが、アイデンティティ、皮膚感覚、モノの考え方の半分は台湾、中国だなあ、と思うときがあります。台湾の人たちや中国の人たちと話をしても、「えっ、日本人だったの?」と驚かれることがよくありますから。
こういう背景があるから、中田市長は私には外交を担うべき「正統性がある」と。
帰り間際、中田市長から
「ところで蓮舫さんの名前って、どんな意味があるの?」
と聞かれました。
私の名前、蓮舫の由来なんですが……。それは明日に(笑)。
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2004年5月12日(水)
=== けん責? ===
「けん責(譴責)」という言葉を辞書で調べてみました。
(1)過失などをきびしくとがめること。
(2)年貢などをきびしく催促すること。
(3)官吏に対する最も軽い懲戒処分。職務上の義務違反に対し、将来を戒めること。
(広辞苑 電子辞書版より)
なるほど。
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2004年5月7日(金)
=== なんかヘンだぞ長官辞任 ===
福田康夫官房長官が辞任なさいました。
ご自分の年金未払いとその情報を隠したこと、さらにその未払い期間を過小に公表したことをかんがみて職を辞されたことには敬意を表します。
しかしそれはそれ、これはこれです。
これとは何か。
福田長官の辞任がニュースで流れて、「絶妙のタイミング」だとか「政治が上手」だとか、民主党の菅直人代表は辞任の機を逸したとか、こういう評論が夕刊やテレビのニュースで流れていました。
私は違うと思います。
確かに、ことの前後を考えると長官辞任のタイミングは実に適宜なものでしょう。しかしこれで、参議院選挙で自民党が有利になる、というのはまったの不適宜です。
これは、小泉政権にとって大打撃とみるべきで、選挙がどうのではないです。
というのは、例えばアメリカの兵士たちがイラクでイラク人捕虜を虐待(英語では拷問といっているそうですが)していた。その事実をラムズフェルド国防長官は今年の1月に知っていたが、隠してましたね。
本当に隠していたんでしょうか。人権擁護は民主主義の基本です。アメリカは、イラクに民主主義を根づかせるために戦争を始めたわけです(その前は、大量破壊兵器があるからといっていましたが)。
民主主義の根幹を揺るがすような事実を隠しておくでしょうか。隠されていたとしたら、大統領は国防長官を罷免するでしょう。しないということは、知っていて今は叱責するという芝居をしている、とも思えますね。
それはいいんですが、ラムズフェルド国防長官、あるいは福田官房長官と立場を同じにするならコンドリーサ・ライス大統領補佐官でもいいです。ライス補佐官が、今回の虐待あるいは情報秘匿の不適切さをかんがみて職を辞したとしたら、どうでしょうか。
アメリカも大統領選挙を11月に控えています。
選挙が有利になる、と思いますか? 思いませんね。むしろ、ブッシュ政権は危機だと思うでしょう。
日本の場合とアメリカの例えは同じです。
ではなぜ日本の場合は、小泉危機だと思わずに、小泉上手だと思うのでしょうか。
それは、問題の本質を見ずに「政局」だけ見ているからです。政局ではない視点で見れば、小泉政権の危機と感じられるのではないでしょうか。べたなぎだっただけに、久々の政局含みの出来事で、一時的にヒートアップしたんでしょうか。
さらにこれは、政局でうんぬんする問題ではなく、あくまで年金の制度はまだ未払い6人の閣僚がいる小泉政権で改正されていいのか、という問題でもあります。首相を一番近くで支えるべき官房長官が辞職してしまった政権に、このまま日本の運営を任せていいのか、という問題でもあります。
さらにさらに重要なのは、誰が先に辞めてどこでケリをつけるかということではなく、私たちの年金をどうしてくれるんだ、ということです。
次に誰が辞めるかではなく、誰が辞めても辞めなくても、きちんとするまで終わらせてはいけない年金の問題ですよ。選挙や人事の問題ではないですよ。
だから、それはそれ、これはこれなんです。
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2004年5月6日(木)
=== 蓮舫応援団 ===
私の応援団(勝手連)ができることになりました。名前は「蓮舫応援団(Club Renho)」といいます。
作曲家の三枝成彰さん、パロディストのマッドアマノさん、麹町米穀株式会社の中山泰次さん、作家の江上剛さん、そして私の人生の師匠高野孟さんたちがメンバーになり、そのほか私の友人知人、そのご友人たち、ご家族のみなさん、社員のみなさんがたくさん参加していただき、私を応援していただける、ということになりました。まだ続々とご参加のお申し込みがあるようです。
みなさん、ありがとうございます。とっても嬉しいです。
Club Renhoはいわゆる勝手連です。
会長には、第一法規株式会社の田中英雄社長が引き受けていただけるということで、さっそく昨日ご挨拶に行って参りました。
私は法学部出身ですから、第一法規さんといえば法令や判例集を出していらっしゃる、カターいイメージがあったのですが、勉強不足でした。教育や食の安全や環境、地方自治、いろんな分野で、というか、まさに私がやりたい分野をすべて網羅している出版の会社です。
何より、社長の田中さんがスゴイ。
ご趣味はカントリーミュージックを演奏すること、で、
「年に2回はステージに立ってますよ」
と。
とても爽やかな方で、ちっともカターくないのは、
「ほら」
と、名刺入れの中からギターのピックが。
社長室には、ギブソンのいいギターが。
「私たちの時代の遊びですからね」
と。
一緒についてきていただいたAさん(私のおとーさん的な人)も、
「ほら」
と、ビックが名刺入れから……。
みんなで大爆笑になりました。
遊び心がある男性って、いいですね。
田中さんのライブは5月14日、赤坂で。後日、詳しいことをお知らせできると思います。
もちろん、私も駆けつけたいと思っています。
第一法規株式会社
http://www.daiichihoki.co.jp
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2004年5月5日(水)
=== ラグビー ===
こどもの日だったので、こどもの日のイベントに参加しようと思っていたら、雨。
イベント中止。そのかわり、息子のリンのラグビースクールについていきました。娘のランも一緒です。
リンはこの4月から小学校一年生になったこともあり、夫がラグビー好きということもあり、ワセダクラブという、早稲田大学ラグビー部の清宮克幸監督たちがやっているラグビースクールに通わせることになったんです。
(ちなみに夫は「プロップマガジン」と「プロップマガジンW」というコラムを書いているようです)
とはいえさすがに小学校一年生で、しかも外は雨ですから、体育館の中でドッチボールをしたり、パスの練習をしたり、ラグビーラグビーした練習じゃなくて、楽しみながら身体を動かしてるぞ、という感じでした。
でも、一緒に来ているお父さんたちは、「早くラグビーしてくんないかな〜」という希望と願望とで胸を膨らませていたようですけど(笑)。
きっとご自分たちも学生時代にはラグビーをなさっていたんでしょう。父親って、自分の息子に自分がやってきたスポーツをしてもらいたくてしてもらいたくて、たまんないみたいですね。うちの夫なんて、
「頼むからラグビーしてくれ」
って拝むようにいってましたもん、リンに。小さなラグビーボールをサントリーの選手からもらってきて、息子のおもちゃ箱にそっと入れておいたり。
私は高校時代はハンドボールをしてました。「ステーション・EYE」で一緒にやってたテレビ朝日の渡辺宜嗣さんもハンドボーラーで、そのまんま東さんも。東さんとふたりでハンドボールの試合のゲスト解説をやったこともありました。
懐かしいな〜。
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2004年5月4日(火)
=== 年金問題 ===
今日は出かける予定を組んでなかったので、家の中でのんびりしてました。
夫は「うぉーっ」といいながら原稿を書いてましたが、
「気分転換も必要よ」
といって、子どもたちと一緒に駒沢公園まで自転車に乗って遊んできてもらいました。自転車(ママチャリ)のカゴにはバットとグラブとボール、子どもたちの自転車のカゴにはローラースケート。これで午後いっぱい遊んでくれるだろう、との目論見通り、夕方になって元気いっぱい(子どもたちは)帰ってきました。
その間、私はお勉強。
HPには「子どもたちの安心と安全」「食べるものの安心と安全」「私たちの国の安心と安全」しか載せていないので、年金問題や男女雇用機会均等法や次世代育成支援法などをどう考えているのか、具体的な政策はあるのか、というご意見もあり、私なりの考えをまとめてみようということです。
まとまったら、HPにアップします。
(しゃべるのは得意なんですけど、書くのはツライものもあったりするんです……)
で、私は年金をちゃんと支払っているでしょうか。
GW前に調べたら、ちゃんと払ってました。
しかも、北京留学中にも支払い続けてて、役所の方が「へ〜」って。
これは、私の代わりに支払い続けてくれた母に感謝してます。
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2004年5月3日(月)
=== 田植え ===
昨日と今日、泊まりがけで田植えに行ってきました。
田んぼの場所は、千葉県の鴨川。そこに「鴨川自然王国」という王国があって、国王は歌手の加藤登紀子さんです。
そこには、週末に東京や千葉、神奈川からいろんな人が集まって、王国には本職の農家の人たちがいて一緒に作業してくれますから、私のような農業をやったことがない人でも気軽にコメを育てたり、野菜や果物を育てたり、余分な木を間伐して森を作り、そして山小屋に泊まって翌朝は山登り、と、いろんなことが楽しめます。
私は高野孟さん(インサイダー編集長)の誘いで、5年ほど前からときどき通っています。
で、今回は田植え。
私の子どもたちも今年で7歳になり、ちゃんと田んぼに入って苗を植えていました。
王国に着いた途端、男の子のリンも女の子のランも、
「ママ、くつ脱いでいいい?」
と。
「いいよ」
と答えるが早いか、もう裸足になって田んぼに直行。でもすぐに、
「ママ、足きった。血が出てきた」
で、大笑い。大した傷ではなかったので、そのまま田んぼにとんぼ返り。
もちろん、手植えです。機械は使いません。
田んぼといっても、王国の田んぼは棚田の田んぼですので、一枚一枚がそれほど大きくなくて(ちなみに、すぐ近くに有名な「大山千枚田」があります) 、大人が2メートル間隔で5〜6人も横に並べば十分な大きさで、それをいくつかのグループに分かれて田植えをしていきます。
それでも大人は腰をかがめて大変な作業になりますが、子どもは腰が低いというか何というか、田んぼの中にずぶずぶっとはまってしまえば、すぐそこは田んぼの表面、だから、ほとんど立って植えているのと同じ状態で、リンもランもまったく苦にならなかったようです。
そのほか、チョウチョを追いかけたりカエルを捕まえたり、大人と一緒に山道に入っていろんな木の種類を教えてもらったり。
夜は、焚き火をしながら外でお食事。
こういうときはバーベキューをするのが相場なんでしょうが、王国では参加メンバーの中に必ずプロの料理人か料理をしたくて来たという方がいらして、魚をさばいたりお肉を焼いたり、ちゃんと大皿に盛りつけた料理、おにぎり、どこそこの名産品をみんなで持ちより、どこそこの銘酒、どこそこの名水、いろいろでてきて、とても美味しく楽しくいただけます。
リンとランは、焚き火の仕方も教わっていました。
さすがに火をおこすことはまだできませんが、燃えている焚き火の中のどのあたりに木をくべればいいのか、どんな種類の木がよく燃えるのか、がわかったみたいです。
「ママ、どんな木が一番燃えるでしょうか」
わからない、と答えると、鼻の穴を膨らまして、
「すぎのき、だって」
なんで? と聞き返すと、
「あぶらがあるんだって。だからパチパチパチーって音がして燃えるでしょ」
鼻の穴は、ますます膨らむ一方でした。
山小屋でゆっくり寝て、今日、帰ってきました。
ですから、日記は1日お休みしました。
ちなみに、鴨川自然王国について、HPから引用します。
王国のHPは、http://www.shizen-ohkoku.smn.co.jp/ です。
<鴨川自然王国>
鴨川自然王国は、千葉県南房総鴨川にある農事組合法人鴨川自然王国が主体となって運営する多目的農場です。美しい里山の自然を背景に「食」と「農」を中心とする、自然共生型の「楽しい生活」を実践しています。
故・藤本敏夫が築き、今は加藤登紀子が受け継いで、自然王国的楽しい生活の模様やノウハウを皆様へお届けし、より多くの皆様に相互交流的ネットワークを築いていきます。農業の多目的機能-環境、食料、生命、健康、教育、エネルギー、コミュニケーションについて考え、チャレンジしていきます。
<国王、故・藤本敏夫より>
健康とよい友達はお金で買うことができません。自然王国は日本中、世界中の人たちと「健康と良い友達」運動のネットワークを広げていきます。「豊かさ」と「便利さ」の裏腹で、私たちが失ったもの何だったのか、このことを正確に視野に入れながらも、愉快で楽しい出会いをしましょう。むしろ楽しくなければ自然王国じゃないのですから。僕は、最終商品というのは、時間と空間だと思っています。時間と空間にはあらゆる可能性がつまっています。金は欲しい。しかし時間と空間は死ぬほど欲しい。自然王国とはつまるところ、「時間と空間」です。
(「農的幸福論〜藤本敏夫からの遺言〜」加藤登紀子編 より抜粋)
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2004年5月1日(土)
=== おそば屋さん ===
麻布十番に「更科堀井」というおそば屋さんがあります。十番温泉の真ん前です。創業二〇〇年、という伝統あるおそば屋さんです。
私がタレントから報道キャスターにかわるきっかけを作ってくれた東海テレビの情報トーク番組の打ち上げを毎回そのおそば屋さんでやっていたのが、私がそこに通うようになった始まりで、高野孟さん、田原総一朗さん、岸井成格さん、三枝成彰さん、そして元NHK会長の島桂次さんたちとおそばをいただきながら、いろんな勉強をさせてもらいました。
で、そこのおかみさんが気持ちのいいくらいチャキチャキで、二〇〇年の伝統そっちのけで(っていうわけでもないんでしょうが)、私や母ともよく気が合って、私の子どもたちも「おかみさん、おかみさん」と慕っていて、「きょうはおかみさんとこのおそばをたべにいこうよ」と子どもたちからせがまれて食べに行く、ということもよくあります。
今日もそれで、更科堀井でおそばを食べました。
いや〜、そば焼酎のそば湯割りを飲みながら、辛み大根を絡めて食べる更科そばは絶品ですね(笑)。
さらに、そこで北京大学での親友、高橋哲也くんと久々の再会も。哲っちゃんと私の夫は、留学生の野球チーム、サッカーチーム、ラグビーチームでも一緒にプレーしてきて、私もよく応援に行ってました。
で、夫と哲っちゃんはおそばを食べたあと、夜の麻布に消えていきました……。
私ももっとお話したかったのに。